2014年9月アーカイブ

昨日『ローマ環状線』というドキュメンタリー映画を観てきたのだが、どうも好きになれない。
ローマの主幹道路の沿線に住む様々な人々のドキュメンタリーなのだが、そもそも「環状線=ローマを取り囲む環状の道路=環・輪」が見えて来ない。いや、環状線を走る車や、道路のある風景は映されるのだが、描かれる市井の人々と環状線の関連が、視覚的にも物語的にも見えてこない(ジャック・タチなら窓ガラスの反射に環状線を映し込むだろう、などと無い物ねだりで観てしまった)。
先週ようやく観た王兵(ワン・ビン)監督の『収容病棟』は、中庭を取り囲むように四角くなった廊下、つまり回廊をとりとめなく歩く精神病患者(中にはそうでないのに収容されている人もいる)たちの姿が印象的なドキュメンタリー映画で、一人のインタビューを撮っている長い1カットの間に、何人もの患者が牢屋のような回廊を数周歩く姿が見れたりする(つまり何度もフレームインしてくる)。また、やる事が無くて回廊をひたすら徘徊する患者の後ろ姿をカメラで追い続け、収容所内の小さな環状線の沿線(つまり病室)に暮らす人々を活写している。これは最小限のロードムービーでもあり、アメリカ大陸の国道1号線沿線に住む人々を追うロバート・クレイマーの傑作ドキュメンタリー『ルート1』に似ている。回廊や大陸横断道路という構造をもフィードバックして、そこに住む人々の人生の瞬間を切り取っている。『ローマ環状線』にはその構造的な魅力が感じられなかった。

もう1点。『ローマ環状線』は長い時間、被写体と時間を過ごし、カメラを意識させない関係性を築いてから撮影に挑んだそうだ。その手法は驚くほど被写体の自然な姿を美しい風景と構図の中に映し取っていて、驚きに値する。しかし何故か、その驚くほどの自然さが、巧妙であればあるほどに不自然さを内包してしまっている気がする。理由の一つは、登場人物たちが妙にドラマチックで上質な雰囲気を身にまとってしまっているから、と思う。もっと素の、しょうもない、くだらない時間も見たいのだ。なのに、登場人物ほぼ全員が何かしらの「人生劇場」を演じてしまっている気がする。彼らはカメラを前に「見せたい自分」から逃れられていないのではないか。そこに被写体のナルシシズムを感じてしまった。
それに比べると『収容病棟』の、即物的なカメラが捉える収容患者たちの姿は時にエキセントリックなのだが、王兵監督は、絶えず距離と節度を計測し続ける事で、彼らを過度にプラスにもマイナスにも描かず、風俗的興味や物語性・ドラマ性を被写体に無闇にまとわせない配慮をしている。結果、そこには撮影者も被写体自身も予想していない驚きの瞬間が何度もあり、大いなる豊かさを映画自身、獲得する事が出来ている。
『ローマ環状線』は決して駄作などではなく、やはり素晴らしい作品であることは認めるのだが、どうも「人生の豊かさ」というロジックにはまり、映画自身の豊かさを見誤ってしまったのではと僕は思っている。いやでも「こんな映画を撮れるか?」と言われたら、そりゃ感嘆の出来だと思ってますが。
しかし映画自身の豊かさは、時に低予算のインディーズ映画や商業映画にも宿ったりするから不思議だ。常にその事だけは念頭から無くさず、そして疑いを持って挑みたい。