2010年11月アーカイブ

11/27
France_pan「ありきたりな生活 (京都バージョン)」
@アトリエ劇研 

あえて「京都バージョン」と書いたのは、フェスティバル/トーキョーで上演された「東京版」(僕は未見)から大きく改変されたものらしいので。それに作/演の伊藤拓自身からも「120%改変しました」とメールがあった。

実際、始まって驚いたのは、(そしてこれが東京版との大きな違いなのだが)伊藤拓自身が冒頭からラストシーンまで全編に渡って出演し、時に観客にフラットに話しかけ、時にいま役者が目の前で演じてる事象を自分がどう思ってるかを忌憚なく語り、色々な意味において伊藤拓のドキュメンタリー作品となっていることだ。
僕は、最初こそトゥーマッチ感に大いに戸惑ったし、これいったいどうなるの?ちょっと錯綜してない?と危うさを感じたが、伊藤がそのギリギリに身を置いていることがわかってくると、とにかく創作に対して真面目すぎるその姿に苦笑しつつも、大いに共感した。
以前、伊藤拓から公開稽古のアフタートークに呼ばれ、そこで「観客と役者の物理的な境界線だけが、演劇の境界線なのか?」というテーマを語り合ったが、それに対する彼からの一つの解答だと思った。

そしてラスト。詳しくは明かさないが、作者の創作におけるセルフドキュメンタリーという意味では、アニメ「エヴァンゲリオン」(伊藤自身は観た事が無いらしいが)のTV版の最終回と映画版のラストを合わせたような印象を与えるが、ただ伊藤を祝福する者はいないし、伊藤を「気持ち悪い」と拒絶する者もいない。伊藤は、観客と役者達と自身の分身である少女の前に、自信なく、誇示するようでもなく、ただ仕方なくそうするしかないという切迫感をもって、その全身を無言で舞台上にさらし続ける。「ああ、ここで歌でも誰か歌いだしたらロマンティックな、多幸感溢れるエンディングを迎えるな」と一瞬思ったが、伊藤はそれを良しとしなかった。だってそれが伊藤拓のリアルだから。多幸感にもっていくと、それは伊藤拓のドキュメンタリーじゃないから。

その意思表示を観に京都までわざわざやってきて、僕は良かったと思った。

ただ惜しいのは、「公開稽古まで含めての壮大なドキュメンタリー作品だった」とウソブければ、伊藤拓はもっと金が取れる男になっていたはずだ(笑)
と、まぁ最後は冗談。

上演後、France_panのメンバーと、アトリエ劇研でHAPPLAYをディレクションした杉原邦生氏とで中華料理屋で深夜まで飲んで語った。そういやF/TもKExでも一度もそこに関わってる人と飲んでいない。これが初めてで、凄く有意義で、かつ楽しかった。こんな場がもっとあってもいいな。ちなみにFrance_panのメンバーの何人かと杉原氏は京都造形大で宮沢章夫さんの生徒だったらしい。それに、あの素敵な声の少女を演じる長洲さんも映像学科で伊藤高志さんの学生だったらしい。そういや京都エクスペリメントに何でこのプログラムが入ってないんだろう。これ、凄く重要なプログラムじゃないか!
36才になった。

去年35才になった時は『「」じゃなくて「」です』と宣言した。

どうも36才は転換期の一年になる気配は濃厚だ。世に出る年になるだろう。
じゃあ36才の「才」は「サイの角のようにただ独り歩め」の言葉から「」としよう。
36犀。世界に斬り込んで行こう。

このタイミングで佐々木敦さんが発行人の雑誌『エクス・ポ』の第二期創刊号「テン/イチ」が届いた。
僕と柴田剛くんと佐々木さんの3人トークが掲載されている。
ページ数で言うとなんと58ページ分も喋り続けている。
大笑いの3人漫才みたいな記事なので気軽に読んでくれるとありがたい。

『エクス・ポ』は映画のエッジのインタビューが多数載っている。
そして、演劇のエッジのインタビューも多数載っている。
定価2000円で恐るべき900ページの大ボリューム。
買って興味あるところを斜め読みするとこから始めたら良い。
そして知らなかった事と出会うべきだ。知ってる事ばかり確認する人生よ、さようなら。

映画と演劇の二つが交わればいい。お互いに刺激を受ければ良い。
僕はこの秋に演劇から刺激を受けまくった。
今までそれほど積極的に興味を持てなかったのに不思議だ。
僕がCO2をやっていた時は、映画祭なのにダンスや演劇、音楽ライブ、カルチャートークイベントなど様々なジャンルの方にも参加頂いた。
それが新しい映画の作り手にとって重要だと信じている。

今年は転換期だ。
全ての境界線を越えて、
犀の角のようにただ独り歩め。
20(土)
チュルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』
@アートコンプレックス1928
チェルフィッチュをやっと初めて観た。ダメな人たちのダメな仕草や言動が過度に誇張され、繰り返される。「そこをクローズアップするか?!」という細部の意外性が新鮮だし、それに応える役者達の身体能力にとても感心する。大いに笑ったし、興味深く観た。そこに隠されたエロスや暴力性(とくにお別れの挨拶は怖かった)、そして照明と音楽が醸し出す、どこか不穏な空気も好きだ。この先、この劇団はどこに向かうのかとても興味がわいた。

21(日)
PortB『個室都市 京都』@京都駅ビル
駅ビルの屋上に個室ビデオ店が設営され、そのブースで、駅ビル周辺で撮影された市井の人々のインタビューを観る。なんだそれは?と思われるかも知れないが(実際、僕も思った)、これが想像以上に面白い。僕は高木駿一君とペア席で観たので、二人で突っ込みながら見る事が余計に爆笑を誘ったのかも知れないが、それにしても凄いな町の人たち!
で、もちろんオプションのツアーに参加。これは内容が書けないが、本当にめちゃくちゃ面白かった。最後は「え!なんで???!」と、高木君ともう一人一緒に行ったwktk川崎と3人で顔を見合わせて驚愕した。いやーほんと、やられました!
東京で観た『完全避難マニュアル』もそうだったけど、個室ビデオというコミュニケーション不在の象徴のような場所に居たはずが、気がつけば他者とのコミュニケーションを思いっきり「強要」される。「避難所」も避難のはずが同じ事が起こった。それが凄く面白い。ああ、そういう事だよなー「避難するのに本当に必要な事」って。ホント最終日ギリギリに観に行って良かったなー。

コンタクトゴンゾ@京都芸術センター
殴る、ぶつかり合う、そういう身体の接触を「コミュニケーション」として捉えて、ただシンプルに観客に提示する。つまりひたすらぶつかり、殴り合う。そこにカタパルト(巨大な梃子の原理を使った投石機)により重そうな物体がパフォーマーを狙ってどんどん投げつけられる。意味とかではない。ただそこにコミュニケーションが存在しているという事実をシンプルに提示しているだけ。そしてそれがとてもエキサイティングだった。いやーこれも面白かった。


この2日間、京都で観たのは全てコミュニケーションについての劇だった。

ほんと『京都エクスペリメント』は東京と京都をダイレクトに繋いだなぁ。大阪はますます下降気味だけど...。

でも今度、大阪西九条で面白い事を計画中です。また近々、書きます。
17日に夜行バスに乗って、東京で一日過ごし、その夜にまた夜行バスで帰ってくるという若者的スケジュールをこなす。その間、2つの演劇的作品を観て、1つの仕事をこなした。


飴屋法水『わたしのすがた』にしすがも創造舎

フェスティバル/トーキョーの演目の一つである飴屋法水『わたしのすがた』を観る。4カ所の不動産を、観客が一人ずつ、数分の時間差を置いて、地図を頼りに回る。そして、そこにある何かを観て回る。役者はいない。ただ、そこにある様々な状態を見つめ、そこにある言葉と向き合う。時に積極的に加担もする。
1カ所目。たった一人でそれを見つめた。近くから、遠くから。
2カ所目。うわっとなったが、まだ近くから、遠くから、余裕があった。珍しさへの感情が勝った。
3カ所目。何かがストンと底に落ちてしまった。奥の部屋はいつか悪夢で見た事があった。精神的に一番こたえたのはこの3カ所目だった。
4カ所目までの道すがら、足が重かった。途中のバス停で気が狂ったオバさんににらまれた。これも飴屋さんの演出か?とすら思った。
4カ所目。見た瞬間、ちょっと入りたくないと思った。そして中に入ってすぐ、やはり後悔した。しかしここまでくれば積極的に闇を見つめる気にさせられている為、どんどん積極的に見つめた。そして一番高い場所の貼り紙の言葉を読んだ後、そのまま屋上に出た。枯れたツタを踏みしめ、風に吹かれながら、死んだ祖母と、今一緒に暮らす恋人の事を考えた。そして僕の「わたしのすがた」は終わった。

気づいたらたっぷり2時間は観劇していた。
しかし、仕事に戻れなかった。【ふと目に入る建物に残された「時間」からイマジネーションが自動喚起される】というやっかいなアプリケーションが脳にインストールされてしまったのだ。

ああ、これはヤバい。避難しなければ。
そう思って、当初予定してなかったPortBの『完全避難マニュアル』の巣鴨避難所を観る事にした。

PortB『完全避難マニュアル』
これもフェスティバル/トーキョーの演目の一つで、山手線の全ての駅の周辺に用意された避難所に、観客はそれぞれ行ってそこで「避難」してくるという作品。ネットでのウワサでは「廃遊園地」や「病院」のような避難所もあるという。で巣鴨にいるから巣鴨避難所に避難した。
巣鴨の商店街自体がすでに避難所のような趣だが、その中で巣鴨避難所は巣鴨らしい場所だった。中に入ると館主さんらしき方から「避難ですか?」と聞かれたので「避難です」と答えた。普段なら絶対に行かない場所で、しかも興味もそれほどなかった場所だった。館主さんとのコミュニケーションも、知らない人との会話が苦手な人には苦痛かも知れない。でも本当にそれが良い。この、知らない人と積極的にコミュニケーションをせざるを得ない感じ。特に興味ない物を見る感じ。そしてやはりそこに発見があり、結果的にその場所に興味が湧いた。ああ、無事に避難出来たんじゃないかな、俺。だって仕事ができる気分に戻ったもの。仕事があったから、次の避難所には行けなかったが、何が待ってたのか本当に気になる。

夜、ポレポレ東中野でシマフィルムの公開プレゼン会に参加。緊張するも面白い体験だった。そしてそのまま夜行バスで帰った。プレゼンの良い結果を祈るが、とりあえず準備をもくもくと進めるだけ。

とにかく飴屋法水『わたしのすがた』は11/28までやっている。絶対観た方が良い。明るい内に観て、もう一度、夜にチャレンジするのが良いと思う。




■発売中の【映画芸術 433号】に井土紀州『映画一揆』について書いています。
原稿のタイトルは「勢いよ お前は振り返らず先頭を

■20日発売の『エクス・ポ』第2期創刊号「テン/イチ」にロングインタビューが掲載されています。僕と柴田剛くん(『おそいひと』『堀川中立売』)と佐々木敦さんの3人漫才です(笑)

■その『堀川中立売』にコメント書きました。

■あと、wktkやります。
1月に西九条のアトリエで実験的な上映を、
3月にはジャンルをクロスする映画祭をやります。
また情報アップします。

11/6

快快(ファイファイ) 『Y時のはなし』

@アトリエ劇研


東京では話題の劇団(?)、快快の京都初公演。

観ていて何度もフワッと泣きそうになる。幸福過ぎて胸がいっぱいになる瞬間があった。(それにしても過去の幸せの記憶が刺激されると何故に切なくなるんだろう?)

ダンサーを含む圧倒的な身体性と、オモチャ箱のような様々な楽しい仕掛け、センスの良い音楽と映像がジャストのタイミングで効果的に使われ、現実と夢が楽しく交差する物語が展開される。色んなものが詰め込まれすぎて『君ら自由すぎか!』って笑って突っ込みたくなる瞬間が沢山あって楽しかった。

個人的には大阪の劇団、子供鉅人に似ていると思ったが、快快は東京のセンスで、子供鉅人は大阪のセンスという違いがあると思うし、そこが面白いから誰か対バン(?)イベントとかやって欲しい。

 

今回の《キョウトエクスペリメント》という演劇祭は、姉妹的演劇祭《フェスティバル/トーキョー》に比べると、

宣伝などのビジュアルに堅さや保守感が否めない。もちろんそこで演じられる様々な演劇は最新と伝統がせめぎあうエッジの内容になっているし、下手すれば「これって演劇?」というアヴァンギャルドなものもあるようだ。ならば演劇人にしか届かないような宣伝展開はどうかと思う。少なくとも僕の周囲の映画好きや音楽好きの間では浸透していない。もっともっとサブカル入門の学生たちまで取り込めるような素敵な演劇祭だと思うので(というか彼らこそ体感すべきだ!)キャッチーな宣伝やトークイベントなどをしても良かったのでは?


それに比べると、サブステージ的にアトリエ劇研で杉原邦生氏がディレクションしている《HAPPLAY》というイベントは「お祭」的なコンセプトが良いと思う。残念なのはサブゆえ予算もないだろうし、お客さんも大盛況とまでは集まっていない事だ。でも僕のような演劇の門外漢がフラっと行って楽しめるラフさがあって、もっと若い人を中心に盛り上がれば良いのにと思う。あと、バーの併設とかどうでしょう?お酒や交流の場がそばにあるのは大事ですよ(笑)


とにかく残りの開催日数、PortB『個室都市 京都』、チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』、マームとジプシー『ハイスクール、バイバイ』、劇団子供鉅人『3P!!!』は観に行きたい。

その間に東京に行ってフェスティバル/トーキョーで飴屋法水『わたしのすがた』も観てくる。

ちょっと信じられないくらい、人生初のマイ演劇ブームに驚いているが(笑)


3月に京都造形大の映画上映サークル「WKTK」も3月にアートコンプレックスかどこかで数日間のイベントをしたいと思っている。予算も超少ない小規模な内容だが、今回の京都エクスペリメント&HAPPLAYに良い刺激を貰った。

10/25
『ヘヴンズ・ストーリー』
@銀座シネパトス

瀬々敬久監督と言えば、ピンク映画という低予算ジャンル映画で『雷魚』や『すけべてんこもり』『汚れた女(マリア)』等の硬派な傑作で、邦画というよりアジアと連帯して繋がってる感のある、僕にとって20代前半からのヒーローである。
その瀬々監督の新作は、4時間以上の上映時間がある大作だった。
ある母子殺害事件(モデルは数年前の有名な事件)から連鎖する「復讐」にまつわる個人の物語のタぺストリーで、被害者の遺族や加害者、加害者を愛する者、事件に影響を受ける者、事件と関係ない殺人者...などの個々人がいよいよ関係し始める後半は鳥肌が立つほどドラマティックであり、ただただ圧倒的である。

主要人物は大きく分けると「女」と「男」だ。
男は一見は暴力的であったり強さを秘めているようでいて、誰ひとり成熟できずに終わる。他方、女は無力な子供として始まり、男を喪失する事でそれぞれが成熟して行く。唯一、子を為す若い女と父を失う少年は二人で成熟の道を歩む気配がある。社会問題を扱っているようでいて、日本古来から伝わるおとぎ話のような壮大な寓話である。



10/28
マレビトの会『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』
@京都芸術センター

広いフロアに十数箇所、役者が立っている。遠慮気味にスポットライトが当てられ、頭上に小さな小さなモニターで解説文と映像が流れる。

役者に近づくと、何やら呟いている。聞き耳を立てていると突然、別の役者が大声で芝居を始める。なんだなんだ?とそっちに意識を向けると、場違いな音楽が鳴り出す。そして別の役者が会場を歩き始める......こうなるともう、どれを観るかを決める事は、どれを観ないかを決める事になり、観客として「どう観るのか?」を問われている気分になる。そして気がつくと、誰が観客か一瞬、わからなくなる。それは逆に言えば、他の観客からしたら私自身が演劇の一部に組み込まれている事になる。

各役者は、それぞれが広島やハプチョン(広島で被爆した在日韓国人が沢山住む町)での取材や体験を、言葉と身体で表現する。原爆の記憶を語るハプチョンの老人を再現する者、広島での個人的な日記を語る者、戦争はよく知らないという自己とヒロシマの距離を語る者、レネの『二十四時間の情事』を演じる者、それぞれが考え、表現する。同時進行でそれぞれが演じ、その頭上の小型モニターには現地の映像も流れたりするので、舞台を観るのではなく展覧物を観賞するように観劇する。小さな呟きを聞き漏らすまいと、観客は役者のギリギリ近くまで歩み寄り、中には舞台装置の椅子に座る観客まで現れ、その境界線はますます曖昧になる。自由入場だが、それぞれは繰り返しのループのようでいて、所々で微妙な差異や新しい展開が始まるから、なかなか帰る事が出来ない。
 
結局私は最後まで観てしまった。その終わりはカタルシスを持ち込まず、DJがレコードを止める時のように、徐々に各役者が静かにフェードアウトしていく。やがて沈黙が訪れ、劇は終わる。その間、私は意識的に足跡を大きく鳴らしながら歩いていた。私の足音だけが大きく響き、つまり完全に劇に参加していたのだった。


今年から京都で刺激的なイベントが始まった。
快快、Port B、チェルフィッチュは観たいと思う。

キョウト・エクスペリメント京都国際舞台芸術祭2010