西尾孔志

20101025 TOKYO 2DAYS 遊園地再生事業団『ジャパニーズ・スリーピング』

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東京へ2日間、行って来た。
CO2事務局にいた頃は、2ヶ月に一度は夜行バスで出張として上京していたが、
辞めてからも2ヶ月に一度は用事を作って上京している。
東京は魅力的な都市だ。やはり唯一無二な感じがする。
ここにしか無い物が沢山ある。だからまた12月くらいに東京に行くつもりだ。

【24日】
遊園地再生事業団『ジャパニーズ・スリーピング』

座・高円寺にて、宮沢章夫さん作/演出の遊園地再生事業団『ジャパニーズ・スリーピング』を観る。

見てる最中は面白いと思いながら見ているのだが、「自分がいったい何を観ているのか?」と常に大きなクエスチョンマークが頭をもたげ、突き放されたように終わった瞬間は正直言って困惑した。
安易に『傑作』とは言わせないぞ、と観る側が試されている感じがしたのだ。

テクストや絵画等の引用の多さから、政治の季節を経て商業に戻ってきた80年代のゴダールの映画を想起したが、真似だとかオマージュとかではなく、ただゴダールの孤独を共有しながら、宮沢さんは演劇に向かっているのだな、そう思った。

僕はこの前、関西の劇団フランスパンにトークゲストで呼ばれて、「演劇」と「演劇じゃないもの」の差って舞台と客席の境界線だけなの?と疑問を口にした。
例えば、稽古中でも役者が芝居をしている空間には誰も入ろうとしない。そこが舞台だろうが美術館の庭だろうが、観客と芝居をする役者の間には境界線が生まれる。当時の事は資料でしか知らないが昔のアバンギャルド演劇では、その境界を物理的に無くす事で、つまり客席と舞台が、もしくは日常と舞台が渾然一体となる事で、「演劇」の枠に揺さぶりをかける事があった。もちろん映画でも似たような枠の揺さぶりは行われた。
だが、そういう物理的なやり方以外の「新しいやり方」で、演劇の枠を揺さぶれないの?という問をトークの本題として演出の伊藤拓さんと、あーでもないこーでもないと語った。

今回の宮沢さんの舞台『ジャパニーズ・スリーピング』は、境界線をはっきり意識し、その内部の精度を徹底的に上げる事で、内側から物理的ではないやり方で、「演劇」の枠を揺さぶれないかという試みに思えた。
「純粋演劇(演劇でしかあり得ない要素)」の純度を高め、膨大なテクストも映像も全て、「物語」や「社会へのメッセージ」にではなく、「演劇」にのみ奉仕する事。その一点勝負の為に、カタルシスや安易に物語を物語る事を禁じているようにみえた(例えばエンディングのようにミスリードを繰り返す相対性理論のギターイントロとか)。
生の舞台上でカメラマンによって切り取られ、プロジェクターで映し出される映像の、フレームと人物の配置もいちいち高度にデザインされていて、見事だと思った。特に小説を朗読する「一番眠い場所」を知る婦人の、スクリーンを映し込む事で映像が入れ子状になり、しかも朧げな像として映る様は、夢と現実の入れ子と呼応していた。

安易に「傑作」と呼べないのは何故か?
それは宮沢さんが「失敗作」となる事を恐れずギリギリの境界線状でこの舞台を成立させているからだろうと思う。
僕はそれをすごく誠実な事だと思う。
『ジャパニーズ・スリーピング』が80年代ゴダールと同じ孤独の上に立っていると言うのは、政治的メッセージでも物語でもない新しいやり方を模索したゴダールと宮沢さんは同じ地平にいる、そういう意味だ。


座・高円寺を出て、焼き鳥屋で映像スタッフとして参加していた高橋明大くんと飲み、感想を言い合う。50代の宮沢さんが、新人のデビュー作品のような透明な野心を持っている事に、30代の二人は驚き焦った。

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