西尾孔志

20100611 CO2夜話 第11夜

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第11夜 三宅唱、神は死んでない

今日上映される「やくたたず」監督の三宅唱という男、この映画を撮る前は、ひょっとすると絶望していたかも知れない。 
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彼は様々なタイプの作品を、常に高い水準を維持して作って来た。 
「俳優の身体をいかに映画の中に捉えるか?」という命題に向け、それぞれ違ったアプローチをみせる2つの習作『マイムレッスン』と『4』。 
三宅自身が「次の段階へ行く為に撮らなければならなかった」というほど、徹底して映画とふざけて遊んだ習作『スパイの舌』。 
 
これらの習作を撮り進める中で、しかし三宅唱は映画に対して、その可能性に対して、いや自分に対して、、、模索し、軽い絶望を感じていたのではないかと勝手に推測する。 
 
彼は自分自身を徹底して客観視出来るほど、冷静で頭のいい男だ。その彼にとって「自分が撮るべき新しい映画というのは一体全体あるのだろうか?」という悩みは、楽観的に希望を持つ事が困難な、厄介な問題だったのでは、と思う。 
 
そして彼は自分が育った土地、北海道で撮る決意をする。それはわかり易いほどにアイデンティティの問題と絡む。 
 
こうして作られた初の長編映画『やくたたず』は、模索の映画だ。それはそれまでに作られた3本の習作以上に、悲観的な認識から始まっている。 
登場人物達は老人から若者まで全員が、普通の生活者でありながら、「私自身」というくっきりしたフレームを持つ事が出来ていない。 
 
北海道の自然の中で、その土地に根ざして生きる人々を撮るにあたり、三宅唱は「地に足をつけ堂々と生きる成熟した人物像」を一切描かない。「それは嘘だ」と。「結局は皆、やくたたずと紙一重で不安定に生きていかざるを得ないのだ」と、都会ではなくわざわざ北海道まで行って証明を試みた。 
 
そこに僕は三宅唱の、絶望から始まった賭けを見た。 
三宅唱は「映画は死んだのかも知れないね。でもね」と静かに語る背中を見た。 
 
そして奇跡は起こる。 
とおおげさな書き方を敢えてしたい。 
 
『やくたたず』という未完成のような脆さを持ったこの作品に、その瞬間と瞬間の狭間に、何か「奇跡は存在する」と思わせるような、神の息吹を感じた。 
三宅唱は絶望から始める事で、映画はまだ死んでない、という希望を、ようやく見いだす事が出来たのだはないか。僕はそう思う。 
 

 
CO2inTOKYO、いよいよ本日開幕。 
 
 
12日(土) 
21時~ 
池袋シネマロサ 
 
『やくたたず』監督:三宅唱 
 
上映後《CO2シンポジウム》 
ゲスト:大友良英(音楽家)×CO2助成監督

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